犯人当ての回

 

   「六つ墓村」は視聴者に当ててもらう気はおそらくなかったであろう。亀岡が藤野に水を飲ませたのはフェアであるが、栗栖は論外で

  り、共犯者の意外性などにも注目して欲しかったのではなかろうか。「妖術使い」は簡単すぎる。これも当ててもらう必要はなかったの

  であろう。柳田がトイレに行くシーンで、推理小説好きの人は確実に分かったはずである。「亀山歌」は千鶴が犯人である事を前提に見

  て欲しかったのであろう。胸の奥で犯人であると決めつつも、他に犯人がいるのではと我々は不安になるのだ。そして、犯人がやはり千

  鶴だったと分かると、即座に自分の脳内で、千鶴以外の人物を犯人だと疑ってしまった事実を隠そうとし、同時に千鶴を疑うに値した証

  拠をここぞとばかりに探すのである。 

   製作サイドは、千鶴が犯人であるように思わせ、しかし、「犯人は別の人物なのではないか?」と私達に少しでも思わせれば、勝ちなの

  である。これこそ、まさに作者が読者に仕掛けるトリックなのである。 それを踏まえると、犯人当ての回は“誰が”ではなく、“どうやった

  ”を予想してもらいたかったのではないかと思う。当然の事だが、それが分からない限りは犯人と決め付ける訳にはいかないのだから。

 

   ちなみに、私が一番好きなのは、「時間の穴」のように、“ボスは決まっているけど、意外などんでん返しがある”という作品である。こ

  の場合、自分の予想が外れてしまった時よりも、当ててしまった時の悔しさの方が大きい。納得のいく説明付きで、かつ外れてしまった時

  の喜びは格別である。この気持ちは、推理小説好きの方になら分かって頂けるはず。

 

 

 

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